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2007年9月8日(土)〜9月29日(土)

渡辺兼人 写真展「摂津國 月の船」

作家略歴    写真を撮ることで…


(c) kanendo watanabe

(c) kanendo watanabe




 

作家略歴

  1947 東京に生まれる
    1969 東京綜合写真専門学校卒業
    1982 第7回木村伊兵衛賞受賞


       

写真展   

1973   個展『暗黒の夢想』ニコン・サロン(東京)
  1974   個展『神秘の家、あるいはエルベノンの狂気』シミズ画廊(東京)
  1981   個展『既視の街』ニコン・サロン(東京)
  1982   個展『逆倒都市』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  1983   個展『逆倒都市U』ツアイト・フォト・サロン(東京)
      個展『類と類型』オリンパス・ギャラリー(東京)
  1984   個展『逆倒都市V』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  1985   グループ展『パリ・ニューヨーク・東京』つくば写真美術館'85(つくば市)
      個展『人形1973-1983(制作 四谷シモン)』
『ジャック・ザ・リパーに関する断片的資料1973』つくば写真美術館'85(つくば市)
  1986   グループ展『日本現代写真展』(バルセロナ、マドリッド、ビルバオ、バレンシア巡回)
  1987   個展『YAMATO-TOKYO』Gスペース(東京)
  1988 個展『YAMATO-大和』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  1990   個展『YAMATO-F』朝日ギャラリー(東京)
      個展『彷徨・写真・城市』パストレイズ・フォト・ギャラリー(横浜)
  1992   個展『L'ATALANTE』平永町橋ギャラリー(東京)
      個展『昭和六十六年 葉月』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  1993   個展『YAMATO1987-1990』ピクチャー・フォト・スペース(大阪)
  1994   個展『神無月迄』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  1996   個展『水無月の雫(参)』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  1997   個展『水無月の雫』江寿画廊(京都)
  1998   個展『半島』エッグ・ギャラリー(東京)
  1999   個展『半島』江寿画廊(京都)
  2000   個展『孤島』銀座九美洞ギャラリー(東京)
      個展『(島) 光の暴力』エッグ・ギャラリー(東京)
  2003   個展『渡辺兼人 写真展』何必館・京都現代美術館(京都)
  2004   個展『陰は溶解する蜜_の』ツアイト・フォト・サロン(東京)
  2005   個展『孤島U』アートプランニングルーム青山(東京)
  2006   個展『雨』ギャラリー山口(東京)


   

出   版

1980『既視の街』(新潮社)
  2003『渡辺兼人 写真集』(何必館・京都現代美術館)
 

 

コレクション    

東京都写真美術館(東京)
  A.O.I. ギャラリー(U.S.A.)
  ツアイト・フォト・サロン(東京)
  何必館・京都現代美術館(京都)
  川崎市民ミュージアム(神奈川)
  エッグ・ギャラリー(東京)
  江寿画廊(京都)
  ギャラリー メスタージャ(東京)




写真を撮ることで、われわれは時間の流れをとめ、切りとる、つまり時間の連続性を堰きとめ宙吊りにする。日常では自明である連続性を放棄した写真はその存在自体が世界との親和性を欠く。

親和性を欠いた世界、つまりそれはわれわれという連続体を一旦無に帰し、目の前にある事象を、仮定する第3の目で解釈・判断しようとする世界の客観の意思によって創出されるものである。真の客観があり得るのかどうかは別として、われわれは日常、目の前にあるものを直視・解釈しようとすることがどれくらいあるだろうか。

目の前にある事象は流動することによって、あるいはわれわれ自らが移動することよって常に変化している。あえて言えばわれわれは、何も見ないことで世界を把握し、「正常」に日々を送っている。そうであれば、流動する世界をあえて固定し、またそれを直視することで成り立つ写真は、人間の「見る」欲望の過剰さとして生まれたものであり、それ自体不自然で異様な存在であるといえる。

世界を客観しようとする意思、それは進歩の過程の一現象ではなく、われわれが生き永らえていく中で避けられなかった過剰さとしての病理として捉える必要があるのではないか。そしてまさにそれこそがロラン・バルトが言った写真の「狂気」の一つではないだろうか。それは、写真を撮ることあるいは写真を見ることの基底に通奏低音として流れている。

渡辺の写真は、その「狂気」を見据えることでまさにアポリアとしての写真を体現している。社会化され飼い馴らされることを拒否し、納まりのよい解釈を受け入れることはない。それは自らの写真をも自らに対して解釈をしないことと同義であり、当然のごとくそこには隘路が待ち受けている。なぜなら「全てが客観可能」なこの世界で、解釈を免れるものは無いに等しいからだ。

写真と自己が一体化するということ、そこには写真によって通念化されてきたはずの「世界の客観」の意志は微塵も見られない。写真家という生命体と紙上に置換される対象との境界が希薄であり(というよりもむしろまずはじめに境界などはないというべきか)、そのどちらでもない「何か」であるということで写真家と被写体、あるいは主体と客体という明快な世界の二分化はない。


そして目の前にある写真と紡ぎだされる言葉、また己の身体としての写真行為との間の絶望的なずれに執着することで、渡辺の提示する写真は、己自身の歪さをますます肥大させ、われわれの目の前に繰り返し立ち現れる。

GALLERY mestalla  外久保恵子